浄土真宗本願寺派 安芸教区 安芸北組

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仏教と平和

現在、私たちは、戦争・テロ・自然破壊・貧困・病気、国内においても、殺人・詐欺・偽装・生活不安等、多くの課題を抱えています。
この世を生きる今の私に語りかけてくださる仏さまの言葉に耳を澄ませてみませんか。

共命鳥の願い

私たちは、浄土真宗のみ教えを拠り処とし、世の中の安穏平和を願っています。
しかし過去には、国家の歩みの中で戦争に協力せざるを得ない悲しい時代もあり、その反省から、二度と過ちを繰り返してはならない、いのちを無駄にしない生き方をしなければ多くの戦争で亡くなられた日本だけでなく全世界の戦争死没者の人々に申し訳ができません。

『仏説阿弥陀経』というお経の中に、阿弥陀如来の世界(極楽浄土)には珍しい生き物がたくさん住んでいると説かれています。浄土六鳥(白鵠、孔雀、鸚鵡、舎利、迦稜頻伽、共命鳥)と呼ばれています。
その中の共命鳥(ぐみょうちょう)は身体は一つなのですが、頭は二つあり、この世において共命鳥は、お互いの頭は敵対関係にありました。しかし、極楽浄土では、争うこともなく、仏の教えを説き、人を仏法に導く鳥として描かれています。

この二つの頭を持った共命鳥は、ヒマラヤの雪山近くに棲んでいました。
頭が二つあるということは、エサを探すには便利ですが、一度意見が違うと大変です。ある時、右の頭が「あそこに美味しそうな果物がある!行ってすぐに食べようじゃないか。」というと、左の頭が、「それよりも喉が渇いた。池に行ってお水を飲もうよ。」と言い、お互い譲りません。やがて喧嘩が始まります。そんなことが続きますと、相手がお互い憎くてたまらなくなります。
そして、ついに一方の頭が、「あいつが居なくなれば!」と本気で考え、もう片方の頭に毒の実を食べさせようと思いつきます。ある日、とうとう片方をだまして毒の実を食べさせたのです。食べた頭の方は亡くなりましたが、食べさせた方の頭も体はひとつ、当然死んでしまったというお話です。

このお話は、実に多くの事を物語っています。極めて親しい者どうしが傷つけ合う、殺しあう「共命鳥」の話は、まさしくこの世を生きる私達の姿のようでもあります。広くは世界の状況…。地球という一つの胴体の中で、日本・アメリカ・中国・韓国・北朝鮮・アジア、ヨーロッパの国々みんな一つ一つの頭をもち、「わしの国だけは」との思いから争いが絶えません。家族関係においても、親の遺産を巡って兄弟通しが争う姿、親が親権を放棄し子どもを殺し、また、子供が親を殺す等々、世のなかをみれば「共命鳥」の話は遠い世界のお話ではなく、身近な世界に満ちあふれています。

お浄土での共命鳥は「すべてのいのちの尊さや、互いの存在を大切にしあう社会」のシンボルです。傷つけあい悲しみしか残らない戦争をなくし、共に生かされ合う平和を願う鳥として、共命鳥は存在します。「他を滅ぼす道は己を滅ぼすことになる道、他を生かす道こそ己の生かされる道」と今も鳴き続けているのです。
これこそ、鳥に姿をかえられた仏さまそのもののみ教えを表しているのでしょう。

 私たちは自分ひとりで生きていると思いがちです。誰一人、迷惑をかけずに生きていくことは出来ません。沢山の周りの人々や、多くの生き物や他の植物のいのち≠ノ支えられてはじめて生きることが出来ているのです。宇宙も地球も国も人間も動物も植物も、すべてのいのち≠ェ互いを支え支えられつつ、一つの大きないのち≠共に生きているのです。 「自分さえよければ、他人はどうなってもいい」との自分中心に都合よく物事を考えていたのでは、相手を傷つけるのはもちろん、結局は自分自身をも傷つけることになってしまうのです。

 東井義雄さんの詩に「水はつかめません 水はすくうものです 心もつかめません こころは汲みとるものです」とあります。すべてのものが他のこころを汲みとることの努力をすることによってこそ、平和な社会ができるのでしょう。

共命之鳥が、今の私たち人間の姿を見て、早く今の自分の姿に気づき、二度と俺たちと同じ道を歩むなよ」と、国々や一人一人に呼び続けているように思えてなりません。

西方寺住職  佐々木浄珠

閉ざされた記憶

戦後70年が過ぎ去り「惨禍の記憶」が薄れつつある今日、仏教徒として平和への願いを新たにしていかなければならないと痛切に感じています。
長い年月のながれにより、薄れ行く記憶を思う。「多くの命の失われたことを」「戦争のむごさを」改めて「とざされた記憶の扉」を開く必要があるでしょう。
20年前いつも、お参りしていたお宅でのことです。その家のおじいさんと、ふたりきりの日がありました。帰り際に、そのおじいさんは「ご院家さん、ちょっと聞いてつかあさい。」とおっしゃるので、もう一度、座り直しました。「実はわしは人を殺した事があるんです。」思わずギョッとしました。「この50年、いっぺんも人に言うたことあなあんです。じゃが、胸が苦るしゅうてのお。それはまだ戦争中のことで、わしに召集令状が来ての、中国大陸に行かされたんですわい。その時わしは、鉄砲を撃つまねだけして、絶対に人は殺さんど、と思いよりました。ところが、中国に着いた次の日の朝、まだ暗いころ、上官に叩き起こされて、兵舎の前に連れて行かれての。」そこには、近くの村から連れてこられた、現地の村人たちが、地面に突き立てられた木材に、縛り付けられていたというのです。その時、上官の声が響いたのです。「お前らは、人を殺した事はあるまい。今から、その練習をさせてやる。」おじいさんは、その言葉を聴いた瞬間、頭の中が真っ白になった事、そして、その村人の中には、女性や子供の姿があった事、また、命令に従わなければ、自分が処刑をされる事への、恐怖と葛藤を話されました。「わしゃあのお、銃剣で人を刺し殺しましたわい。何の罪もない人を殺したんです。50年たった今でも、あの時の感触が、この手に残っちょるんですよ。戦争ちゅうもんは、むごいもんですのお」50年という歳月の間、ずっと口を閉ざし、胸の中にしまい込まれたものを、一気に吐きだすかの様でした。その一言一言を聞きながら、語り継ぐ事の大切さを、あらためて感じました。そして、歎異抄の「さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべし」と親鸞聖人のお言葉を思いつつ、縁があればどんな事でもしかねない私たちだからこそ、非戦の思いを強く持たねばならないと感じた事でした。

合掌 宝海寺住職 熊谷常照

仏教は平和の教え

実にこの世においては、 怨みに報いるに怨みを以てしたならば、 ついに怨みの息(や)むことがない。 怨みをすててこそ息(や)む。 これは永遠の真理である。  中村元訳 『ブッダ真理のことば』

仏教は平和の教え 平和をめざす教え

仏教は来世の問題を説き示している宗教であり、現実社会の問題には関心がないように考えられておられる方は多いと思います。これは長い歴史の中で、仏教の一面だけが強調されて伝えられ、そのような誤解が生まれてしまったのです。
仏教の原点(本来の教え)は、開祖であるブッダ(お釈迦さま)であります。
表題のことばは、ブッダ(お釈迦さま)のことばをつづった最古の経典にあることばです。 このことばは、明らかに来世のことではなく、人間社会の問題に対することばであります。

かたき討ち・自衛権

江戸時代のかたき討ち≠竝曹フ自衛権≠認めるのが、人間社会ですが、ブッダは《真理》として、「怨み」が生まれ、「怨み」が相続、増幅し、人の心に怒りや争いが絶え間なく続き、平和の実現は永遠にかなわないことになることを見通しておられるのです。ブッダが問題にしているのは、権利ではなく、真理なのです。

和を以て貴しとなす   聖徳太子 十七条憲法第一条

日本の釈迦 聖徳太子 するどい指摘

日本のお釈迦さまといわれる聖徳太子は、十七条憲法の第一条の冒頭に「和を以て貴しとなす」と記されました。国をつかさどる心構えとして、まず「平和」を挙げられました。真の仏教徒です。この言葉に続けてとてもするどい指摘がしてあります「人みな党(たむら)あり。また達(さと)れる者少なし。」と明示されています。【党=人は徒党を組みたがるが、たくさんの人が集まったからといって、真理をわきまえる者は少ない】という意味です。
多くの数を持っている党といえども、憲法違反がまかり通る道理などありません。

中国を憎むのではない。
中国を憎む心を憎む。
敵は最大の師である。  ダライ・ラマ

現代の釈迦として世界中の尊敬を受けるダライ・ラマ法王。

ご承知のようにチベット国家の君主でしたが、中国の力による支配で自治区とされ、亡命をよぎなくされてしまいました。
国を亡ぼし、愛する国民を虐げられているにもかかわらず、ダライ・ラマは「中国を憎む(私自身の)心を憎む」と言われるのです。憎むとは、嫌う、遠ざけるという意味です。自分自身の心に、怒りや争い心が起こることを遠ざけるということなのです。まさに、ブッダの真理そのものです。真理の実践者です。それどころか、大切なことを教えていただいた師である≠ニまでおっしゃっています。

みなさんそれぞれお考えがあり、ご意見もあることでしょう。
ご承知いただきたいことは、仏教は平和の教え・平和をめざす教えであるということです。先の大戦では、平和をめざすブッダの教えに反して、行動してしまいました。この深い反省と懺悔を噛みしめて、平和の教えを大切にしたいと思います。

品秀寺住職 柳父正道

ともにこれ凡夫

 コロナ禍で鬱屈した日々が続いていますが、ここにきて、ロシアのウクライナ侵攻の報道がかけめぐり、核兵器の使用、第三次世界大戦が現実味を帯びてきています。
 争いというのは、お互いの主張がぶつかる際に起こるものということは、家庭内でもしばしば実感する所ですが、自分の正義を信じて疑わない善人同士には、争いが絶えることがないということを思います。
 日本仏教の始祖で摂政として政治を行われた聖徳太子が、仏教を根本にご自分の政治理念を表明された著作に、『憲法十七条』があります。その第十条に「心の中で恨みに思うな。人の心には自分を正義と見る性質があり、他人が正義とすることを自分は不当とし、自分が正義と見ることを他人は不当とするものだが、お互いは必ずしも聖人でなく、また愚者ではない。ともに凡夫にすぎないのである。互いの善悪は始末のないようなもので、他人が自分に対して怒りを向けても、むしろ自分に過失がなかったか反省せよ。また自分の考えが道理に合っているとしても、多くの意見を尊重して行動せよ。」(現代語訳)と説かれます。
 結果として多くの人を救った、逆に多くの命を奪ったなど、置かれた状況により、いかなる行為をもしてしまうのが、私たち凡夫という姿です。凡夫の主張する正義に絶対はなく、むしろあやまちを犯す存在です。そうした凡夫を、真宗門徒はお念仏を申しつつ、仏の光に照らし出された自分の姿であると、うなずきながら生活してきました。
 いまウクライナでのことは、見聞きするよりも理解し難い国や民族、宗教といった根深い歴史・事情があるようです。人間・争いについて、あらためて考えさせられています。

正光寺住職 教重賢次

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